世田谷族の歴史
こんな感じで世田谷族は誕生しました |
1986.8 |
世田谷の西の端っこでタウン誌「世田谷族」が誕生
当時マスコミ関係で働いていた4人(999、屋台の親父、UNI、まっちゃん、以上HN)が、世田谷をもっと知ろう、いいものを発見しよう、新しい出会いを探そう、ということで世田谷区限定のフリーペーパーを企画。
まだワープロも普及してない時代に悪戦苦闘しながら、何とかコピー対応の全8ページ月刊誌を作成・発行。
ネーミングは「竹の子族」「●●族」という流行の時代だったので、安易に「世田谷族」と命名。事務局は一番広い部屋を借りていた屋台の親父宅。 |
1989.12 |
「世田谷族」廃刊 幻のタウン誌に・・・
取材と称して「飲み歩き」「遊びまわり」、編集会議と称して毎晩「酒盛り」で超マイペースで発行してきた「世田谷族」も3年半でついに廃刊。メンバーが転職、結婚などの諸事情で世田谷を離れ発行することが困難になったためで、1989年12月に最終号を作ることなくイキナリ廃刊となる。(正直、面倒くさくなっただけ、という説もある)
それまで「世田谷族」を置いてくれた企業・店舗はたくさんあったが、廃刊の理由が曖昧だったため、挨拶もお礼もしなかったというとんでもないエピソードもある。(以下略) |
以降、10年間休眠状態・・・ |
2000.1 |
メールマガジンで「世田谷族」が復活
三軒茶屋で遊び呆けてた昭和女子大生4人組が、どういういきさつかは知らないが、過去の「世田谷族」を発見。そのネーミングで「メールマガジン」を出してみたいと突然思い立ち、999に相談を。当然999は即OK。
某スポンサーの協力を得て、グルメ情報を中心に「あら・これ・世田谷」(世田谷族2000)として復活。 |
2000.3 |
メールマガジン「世田谷族」のスタッフ交代
女子大生が酒を飲みながら、しかも泥酔状態で思いついた企画が長続きするほど世の中は甘くない。飽きとネタ切れで早くもメールマガジンが休刊。スポンサーにも見放されそうになり廃刊の危機へ。
そんな中、せっかく「世田谷族」という名前が再定着してきて、スポンサーの意向もあり、創始者999がメールマガジンを引き継ぐ形へ。(999がのせられて騙されたいう説あり) |
2000.12 |
「世田谷族」がホームページへ
メールマガジンを何とか21号まで刊行させた段階で、スポンサーと意見&方向性で対立。999にも定期的にメールマガジンを発行する元気は無く、「たまに更新すればいい」という周囲の(いい加減な)声もあったことから、「世田谷族」は突然ウエブに。
これでメールマガジンから開放されたと喜びモードの999は、この日から「更新」という呪縛に悩まされる。 |
2001.11 |
匿名掲示板とオフ会が主流の「世田谷族」
2001年11月にスタートさせた匿名掲示板「世田谷族談話室」がブレイク。名無しと名無しが掲示板で出会い、オフ会が毎月のように盛大に行われるようになる。ただし「名無しのコミュニケーション」故にトラブルやストーカー事件も多く、一時期は70名を超すメンバーも徐々に減少。
その反面、ウエブのグルメ情報に掲載した一部の店が盛り上がるという現象が・・・
このあたりから999は「金を出すからウチの店を載せてくれ」というメールに悩まされる。(当然拒否してたが) |
2003.5 |
衰退の一途を辿る「世田谷族」
「世田谷族談話室」がサーバートラブルで消失。一気に掲示板関係が寂れる。さらに999のヤル気が全く起きないため、このあたりで事実上の「終息宣言」。
この時の999の名言(迷言)は「匿名の文化は育たない」 |
以降ウエブ(ホームページ)は放置状態 |
2004.6 |
バーチャルカフェ「世田谷族」オープン
三軒茶屋の「下ノ谷カフェ」で世田谷ネットの杉本氏と会った999は、何かに触発されたのかのように「世田谷族」を復活させようと決意。(単にカフェのカレーが美味しかった、スパイスに触発された、という説あり)
新パートナー「うはぁ♀」とバーチャルカフェ「世田谷族」オープンさせたが・・・
2005年4月に閉店w |
2005.7 |
世田谷族2005として再稼動
運営の中心を烏山在住の屋台の親父氏に任せることに。
超強力メンバーの奈菜代&さっち嬢も協力スタッフに加わり、世田谷族をとりあえず再稼動。サイトも再構築し、ネット放送やブログにもチャレンジする方向に。
といっても相変わらずのスローペースは代々引き継がれるのか?
なかなか行動に出ない世田谷族。。。
さてどうなるんでしょうね・・・??? |